正田耕三氏「ロサンゼルス五輪のことから振り返っていきます」

引用元:東スポWeb
正田耕三氏「ロサンゼルス五輪のことから振り返っていきます」

【正田耕三「野球の構造」(1)】 36年前の1984年、ロサンゼルス五輪の公開競技として行われた野球で、全日本チームは幾多の困難を乗り越えて金メダルに輝いた。メンバーの一人でもある正田耕三氏は170センチと小柄ながら、プロ野球広島入団後も持ち前のガッツと負けん気の強さで2年連続首位打者をはじめ、数々のタイトルを獲得した。今だから明かせる(秘)エピソードを交えながら、その半生を振り返る。

 東スポ読者の皆さま、こんにちは。正田耕三です。このたび、東スポ紙上で野球人生を振り返ってもらいたいとのお話をいただき、自分にとってもいい機会だと思って引き受けさせていただきました。

 今年7月24日から開幕するはずだった東京五輪は新型コロナウイルスの感染拡大の影響で1年延期が決定しました。まだまだ予断を許さない状況ではありますが、中止にはならないとのこと。そこで今回は“東京五輪の火”を消さないためにも、野球を始めたころの話ではなく、先に36年前のロサンゼルス五輪のことから振り返っていきたいと思います。

 結論から言うと、僕らは公開競技ながら野球では初となる金メダルに輝きました。当時は「侍ジャパン」のようなしゃれた呼称はなく「全日本」として社会人、大学生の混成チームで臨んだわけですが、そこに至る道のりは決して平坦なものではありませんでした。

 2000年のシドニー大会から一部プロが参加し、04年アテネと08年北京はプロの精鋭を揃えて五輪に挑みましたが、最高成績はアテネ大会の銅メダルです。プロが参加する前の大会を振り返っても公開競技だった1988年ソウルと96年アトランタの銀メダルが最高。野球で五輪の金メダルを獲得したのは僕らロサンゼルス組だけなんです。

 そのスタートは五輪前年の83年9月、韓国のソウルで行われたアジア野球選手権でした。ロサンゼルス五輪の予選も兼ねた大会で、参加した国と地域は開催国の韓国をはじめ日本、オーストラリア、台湾、フィリピンの5チーム。前年の世界選手権を制した韓国はすでに五輪の出場権を得ており、日本が五輪への切符を手にするには優勝か、韓国に次ぐ2位になることが条件でした。

 全日本のメンバーが発表されたのは都市対抗準決勝で、我が新日鉄広畑(現日本製鉄広畑)がのちにチームメートとなる川端順さん擁する東芝に負けた8月2日。20人中11人が前年の世界選手権に出場した選手で35歳の捕手、佐竹政和さんを筆頭にベテランが多いチーム編成でした。計算のできる戦力で確実に五輪出場権を得ようという狙いだったのでしょう。

 しかし、9月1日に開催地である韓国のソウルへ向かう直前、信じられないニュースが飛び込んできました。未明に起きたソビエト連邦(現ロシア)の戦闘機による大韓機撃墜事件です。出発時に詳細までは分かっていませんでしたが、行き先は撃墜された旅客機が向かっていたのと同じソウルの金浦国際空港。なんとか無事に到着しましたが、現地入り後も「俺たちは大丈夫なのか?」と不安な気持ちになりました。

 ☆しょうだ・こうぞう 1962年1月2日生まれ。和歌山県和歌山市出身。市立和歌山商業(現市立和歌山)から社会人の新日鉄広畑(現日本製鉄広畑)に進み、84年ロサンゼルス五輪で金メダル獲得。同年のドラフト2位で広島入団。85年秋から両打ちに転向する。86年に二塁のレギュラーに定着し、リーグVに貢献。87、88年に2年連続で首位打者、89年は盗塁王に輝く。87年から5年連続でゴールデン・グラブ賞を受賞。98年に引退後は広島、近鉄、阪神、オリックスほか韓国プロ野球でもコーチを務めた。現役時代の通算成績は1565試合で1546安打、146盗塁、打率2割8分7厘。