1951年中日スタヂアム炎上…パニックのスタンドは「雪崩を打って大混乱」その時選手たちはどう動いたか

引用元:中日スポーツ
1951年中日スタヂアム炎上…パニックのスタンドは「雪崩を打って大混乱」その時選手たちはどう動いたか

 名古屋は絶好の野球日和に恵まれていた。1952(昭和27)年4月5日。サンフランシスコ講和条約の発効(28日)直前という時代を反映してか、米国空軍のタイアー副司令が始球式を務めている。当時はチーム名は「名古屋ドラゴンズ」で、現在のナゴヤ球場は中日スタヂアムという名称だった。ただし、この本拠地での試合は、実に9カ月ぶりだった。

 前年の8月19日に球団史上最悪の悲劇が起こる。3回、西沢道夫が打席に入っていたときネット裏から上がった火の手は、みるみるうちに燃え上がった。パニックに陥った観客がグラウンド内へ逃れようとする様子は、当時の中部日本新聞の記事によれば「雪崩を打って大混乱」。両親を亡くし、姉と2人で暮らしていた13歳の少年、息子から譲られた招待券で観戦した67歳の男性、「置いていかれたと知ると、長男が怒るよ」と妻に止められたが、次男と三男を連れてきた父親が、帰らぬ人となった。

 原因は観客のたばこの不始末と言われるが、スタンドは木造。下には弁当の空き箱が散乱しており、ボヤ騒ぎは日常茶飯事だった。起こるべくして起こった火災により、球場はほぼ全焼。残りシーズンは近隣の球場に振り替えた。突貫工事により鉄筋コンクリート造りに生まれ変わった球場のお披露目が、4月5日だった。

 野球が大好きで、ドラゴンズを愛した人が球場で命を落とす…。そんな悲劇が起こったとき、選手はどう動いたのか。それを知ってもらいたくて、この記事を書いた。火災当日もお披露目試合も、相手は巨人、投げたのは杉下茂。いつものボヤとは違う。すぐに察した杉下たちは、われ先に逃げるのではなく観客を誘導した。

 「フェンスはグラウンド側にぐにゃりと折れ曲がっていたよ。『中で受け止めるから』と言っても、女性だとなかなか飛び降りられなくってね」

 当日は7・4メートルの強風が吹いており、杉下たちは風上のバックスクリーンから観客を逃した。その中の1人に、生まれて初めて野球観戦した、当時10歳の高木守道がいたとわかるのは、まだ先の話だ。

 負傷者も300余名。杉下たちは翌20日、病院に見舞いに向かった。「体が圧迫されたからなのか、全員の目が真っ赤に充血していた」という証言が生々しい。 1951年中日スタヂアム炎上…パニックのスタンドは「雪崩を打って大混乱」その時選手たちはどう動いたか 翌年4月5日の名古屋-巨人戦、再建された中日スタヂアムに3万5000人の観衆が訪れた  野球を見せたい選手がいる。野球を見たいファンがいる。しかし、今は野球より大切なことがある。68年前の春、再建なった中日スタヂアムには、3万5000人もの大観衆が詰め掛けた。本拠地に戻る球音を楽しみたい気持ちだけでなく、杉下たちの勇気と誠実さが伝わったからだと思いたい。試練は必ず乗り越えられる。歴史はそう教えてくれている。